2003年7月26日土曜日

日曜日のマーケティング

広告代理店で学んだこと

広告代理店に入社してから5年間マーケティング部門にいた。マーケティング部門と言っても、広告代理店の場合自社のマーケティングをやる訳ではない。クライアント企業に広告戦略を提案する際のロジックづくりとマーケティングサービスを担当するのである。

しょせんロジックづくり(これを口の悪い人は「代書屋」と呼ぶ)がメインだから本格的なマーケティングには程遠いのだが、いろんな業界のマーケティングを垣間見ることができて勉強になったことは確かだ。

6年目に媒体部門に異動した。それは同じ会社でありながらまったく異なる世界だった。

一応説明しておくと、媒体部門の仕事とはクライアントの広告活動のためにテレビや新聞のスペースを買い付けたり、逆にテレビ局やラジオ局の企画をクライアントに持ち込みお見合いを成立させることだ。

ことテレビやラジオに関して言えば、それは限られた電波をどこが買うか、どこに売るかというゼロサムゲームの世界だった。そういう場所では往々にして「義理」と「筋を通す」ことが重視される。何でもありの完全弱肉強食の世界になってしまうことは誰も望まないからだ。

そんな世界になじめなかったぼくの中ではマーケティングへの渇望が大きくなっていった。そしてしだいに仕事以外の部分でマーケティングを考えるようになっていった。

生活とはなにか

実は媒体部門への異動と相前後してぼくは家庭を持つようになっていた。

家庭を持って学んだことのひとつは「生活とは何か」ということだ。もっと言うと、独身時代には本当の意味では「生活」していなかったなあということなのだ。

もちろん独身だろうとなんだろうと誰もが生活はしているに決まっている。しかし、ちょうど社会人になってから結婚するまでの時期がバブル真っ盛りの時期だったこともあって、ぼくの独身生活は「生活」と言うよりは「流行」とでも呼ぶべきものだった。

たとえば、独身で、十分な金と時間を自分ひとりのために使えて、高級ブランドを身にまとい、話題のレストランを食べ歩き、というような毎日をたぶん生活とは言わない(念のため言っておくと、ぼく自身そんな生活を毎日やっていた訳ではないが)。

それでは生活とはいったい何か。それはつまるところ、限られたお金(と時間)をどうやりくりしていくかということではないだろうか。家庭を持ち、また子供を持ってあれやこれやと買わなければならないものが増える。自分の判断だけでは買えないものも増える。やりたいことや行きたいところがあっても、家族と過ごす時間があり(それが別段苦痛ではないにしても)、仕事に費やす時間もある。

そこに選択があり、買われる商品(サービス)と買われない商品(サービス)がある。「すこし手を伸ばせば」とか「あれを我慢すれば」といったダイナミズムが生まれてくる。「これがあれば時間と金が節約できる」といった新たなニーズも生まれてくる。それらを探り、掘り起こすところにマーケティングの存在意義がある。

マーケティングとはなにか

それではマーケティングとは何か。

たとえば、素朴な疑問なのだが、自動車メーカーの社員は他社の販売店に行ったことがあるのだろうか。視察などというレベルではなく、実際にお客として行ったことがあるかどうかが問題だ。おそらく彼らは入社した瞬間から自社の車に乗るようことを明示的にか暗示的にか教育されているのだろうから、他社の販売店になんか行くことはないに違いない。

そこに真のマーケティングはあるのだろうか。よく「ユーザーの声を聞く」という。若者にグループインタビューをやったり主婦に日記を書かせたりする。それは確かに有益なことだろう。そこから拾えるものもたくさんあるだろう。だがそれらをもとに企画し、計画をたてるのはもちろん日記を書いた人間ではない。実際に商品について、サービスについて考える人間、決定する人間が感覚を共有していないマーケティングが成果を生むわけがあるだろうか。

自動車メーカーの社員にとって自社のクルマに乗ることは当然のことかもしれない。すこしでもそうやって営業活動に貢献することが社員の倫理なのかもしれない。だが、焼け跡から裸一貫でやり直した時代ならいざ知らず、現代はいかにして消費者のニーズを知り、それを商品づくりと販売方法に還元するかという時代である。

自社の販売の第一線を知り、他社の販売の第一線を知り、ユーザーの心理をみずから体験するという貴重なマーケティングの機会をみすみす捨て去っていることに彼らは気づかないのだろうか。たぶん「メーカーの人間は自社商品を買うべきもの」という暗黙の組織の理論に黙従しているだけなのだろう。

それが組織というものだ。

組織の論理

実は、そこにはもっと根の深い問題が潜んでいる。

思うに「会社」というところと「生活」との間には距離がありすぎないか。「生活」と「政治」との間に距離がありすぎるように。

何故電力不足の首都圏でビジネスマン(あえてビジネスマンと言おう)は、スーツを着つづけ、さらにそれを強要しつづけるのか。何故オフィスの女性たちが寒がっている中で、スーツを着た男性たちは涼しい顔でいられるのか。何故社内でのあいさつは目下が目上にするものなのか(そもそも契約によって雇用された1対1の対等な社会人同士ではないのか)。何故部長は部長であるだけで、社内はもちろん宴会の席でも「エライ」(=わがままを通す)のか。子供の目で見れば不思議なことはいくらでもある(「ねえ、あのおじさんどうしていばってるの?」)

その距離が雪印事件を生み、東海村事件を生んだとは考えられないだろうか。いずれも組織の論理(=風土)が生んだ犯罪だった。誰もそれが社会的に見てどうかといったことは考えなかった。当事者たちは組織内の秩序に従って動いただけなのであり、そこにこそ問題が潜んでいる。過労死問題から古くは外務省のノーパンしゃぶしゃぶ事件にいたるまで、すべてがこの系譜の上にあるように思える(悪いことに日本には「清濁合わせ飲む」という言葉がある。それは現実的な行動指針として有効なのだが、ある種の組織内論理と結びついて曲解されるときわめて悪い結果を生む)。

どんな組織も、外部から切り離されてそれ独自の論理で動きはじめると、そこから腐敗がはじまる(ここで腐敗と言っているのは必ずしも汚職とか不祥事のことのみを指しているわけではない)。それはおそらく組織内の秩序がかたちづくられはじめるのとほとんど同時に起こる。秩序とは一定の閉鎖系においてはじめて成立するものであるからだ。

秩序が腐敗をつくりだす。誰も腐敗とは気づかないうちに。たぶんそれは如何ともしがたいことなのだ。秩序には一定の価値観が必要である以上。価値観が「秩序」というかたちで固定化された瞬間、組織は外の世界から遊離しはじめる。

それはよく「大企業病」という名で呼ばれたりする。組織が大きくなればなるほどその体躯を維持するために秩序が必要となる。秩序は組織を維持し、その成員をまとめておくのに必要である反面、組織を硬直化させ、速度や柔軟性を失わせる。それだけではない。その根元のところである種の感受性のようなものが腐りはじめるのだ。

だから社員が50人を越えたら、会社を分割すべきだという人もいる(バージングループ総帥のリチャード・ブランソン氏)し、バーチャルカンパニーという発想もある。だがほとんどの(日本の)会社はその極端な考え方になじめない。

そしてマーケティングのほとんどがそこで行われている。その風の通らない場所で。

日曜日のマーケティング

日曜日の視点からマーケティングを見返してみよう。風通しのいい場所にマーケティングを引っ張りだしてみよう。

もちろん生活の視点だけでマーケティングを語れないことは百も承知だ。マーケティングは市場戦略だけで成立するわけではない。そこには生活の側からは見えない(また見える必要もない)収益構造の問題があり、ロジスティクスの問題もある。

にも関わらず、マーケティングはもっと生活の視点に引き寄せられるべきだ。ぼくがマーケティングを本当に理解するようになったのは、媒体部門にいて、いわば外側からマーケティングを見るようになってからだった。仕事から離れ、机上から離れて休日の視点で商品やサービスや販売を眺めるようになってからだった。

このページはそんな思いから「日曜日のマーケティング」と名付けられる。日曜日の、子供たちの歓声の聞こえる公園や、老若男女であふれかえるショッピングセンターのフードコートに、また通勤ラッシュの雑踏の中でベビーカーの上にかがみこむ若い母親の姿にだってある種の日曜日が潜んでいる(それは「プライベート」という言葉でくくれるかも知れない)。そこにこそ新しい、「生活」と密着したマーケティングの出発点がきっとあるからだ。