2006年6月30日金曜日

仮設店舗の話

駅前の古い公団ビルがようやく建て替えになるらしい。


駅に近い方の棟は住宅ばかりだが、遠い方の棟には商店も入っている。

立ち退きとかはどうするのかなと思っていたら、まず先に駅に近い方の棟が取り壊された。


しばらくして、その跡地に仮設の建物が建ちはじめた。

工事事務所か何かかなと思っていたが、1週間ほどして見ると、遠い方の棟に入っていた商店のいくつかがその仮設店舗で営業を開始している。

店頭にはすでに商品が山と詰まれ、空っぽの箱に灯がともったように、何かが息を吹き込まれたように動き出している。


こういう光景を目にすると嬉しくなる。そこに経済の原点、人間の営みの原点があるような気がするからだ。

どんな場所でも商売ははじめられる。ただの空き地であっても、多分ミカン箱ひとつあれば営業はできる。

社会が整ってくるにつれて、ぼくたちはそんな単純なことを忘れてしまっていないだろうかという気になる。


いやもちろん、ミカン箱の上で生身の商売をやっている人たちは忘れはしないだろう。忘れてしまった瞬間に食べていけなくなるからだ。

むしろ忘れていないかと心配になるのは、ぼくたちのようなサラリーマンだ(公務員か民間かは関係ない)。

マーケティング論だとかCS論だとかをぶっているうちに、商売とは何かということがわからなくなっていないだろうか。


実はぼくはこのCS論という奴が最近胡散臭くて仕方がない。

「お客様は神様」だとか「真実の瞬間」だとか、一時期はそういう考え方に染まってみた。気配りの行き届かない店舗や店員を見ては、「だからダメなんだ」と思ってみた。

しかし、そんなことは少なくとも客が思うことではない(そんな客は最低だ)。

それは当たり前だが、店をやっている方の心の持ち方としても違うのではないかと最近は思う。


商品を補充する店員が狭い店の通路をふさいでいたっていいじゃないか。気づいたら「えろうすんまへんな」と、それでいいのだ(こういう時にやはり大阪弁というのは偉大だ)。

結局大事なのは、人間どうしの会話がそこにあるかどうかではないだろうか。そういう意味では、むしろ狭い通路を店員がふさいでいた方がいいのかも知れない。逆説的だが少なくともそこにコミュニケーションの接点が生まれる。


コミュニケーションという単語はこういうときによく使われるが、これはマーケティングプランナーが好むようなきれいごとの「コミュニケーション」の話ではない。どこまでも生身の会話、ケガを承知の交通の話だ。


そうなってくれば、これは店の側、店員の側の問題ですらない。コミュニケーションとは、どこまでも双方の問題だからだ。

客が「オレは客だから」と思っているかぎり、そこに豊かな関係性のタネはない。

店員が「相手は客だから」と思っていても同じことだ。


ひとつの大きな部屋があるとする。

ある隅っこを、ここは寝室と決めればそこが寝室になる。別の隅っこを、ここは居間と決めればそこが居間になる。

記号論をかじりはじめた時に新鮮だったのは、こういう考え方だった。


言葉はある限定された何かを指し示しているようでいて、実はそうではない。

部屋の例えのように、あくまでも「その辺が寝室、この辺が居間」という相対的な意味を指し示しているに過ぎない。

それが記号の本質だ。どこまでも恣意的なものであって、暫定的なものでしかない。


店というものも同じだろう。多分すべての店が仮設店舗なのだ。

客だとか店員だとかいう立場もまた同じことだ。客であることも店員であることも、いずれも仮の姿であって、交換可能な一時的な役割であるに過ぎない。


何やら仏教の教えめいてきたが、そうしてみた時はじめてぼくたちは、またミカン箱の上で商売をはじめられるような気がする。

企業や資本、金儲けといったことを眉に唾つけたり、色眼鏡で見たりすることなく、等しく人間どうしの営みとして眺め、共有することができるような気がするのだ。


商売とは、人間のもっとも基本的な営みのはずだから。