2005年3月12日土曜日

デザインと編集

ショウルームにて

先日某携帯電話会社のショウルームに行った。前に機種変更したときから改装したらしく、随分きれいになっていた。

フロアの中央にはなだらかに曲線を描く展示台がふたつあって、モックモデルが機種ごとに並んでいる。それぞれの機種は三色ごとのカラーバリエーションが用意されていて、半透明のアクリル板を透かして下からライトアップされている。

なかなか快適なショウルームではあった。少なくとも眺めているかぎりにおいて。


問題は妻が機種の検討にはいったところからはじまる。

内蔵カメラで撮影した画像が、携帯の液晶画面で見てもPCに移してプリントアウトしても美しい、というのが希望だった。そのためにどんなスペックが必要かはわかっていた。

しかし、この快適にデザインされたショウルームは、こうした情報を探そうと思うととたんに快適ではなくなる。ライトアップされたディスプレイには最小限のPOPしか設置されていない。内蔵カメラが何万画素かというそれだけのことさえ、脇に置かれているカタログをめくらなければわからないのだ。

もうひとつの希望は、PCサイトを閲覧できる機種ということだった。さすがにこれはPOPでわかったが、再現性がどの程度のものか確認したかったので、デモ機で見せてくれるようショウルームのお姉ちゃんに頼んだ。お姉ちゃんはしばらく液晶画面をにらみながらカチャカチャやっていたが、やがて言った言葉は「申し訳ありませんが、ただいまちょっと確認できないようでございます」。まあこれについては、PCサイトなんか閲覧した日にはパケット代がバカにならんからまあいいかという話になった。


そうこうするうち子どもが飽きて、奥のソファで遊びはじめる。すかさずショウルームのお兄さん(年齢的にはおじさんか?)がつかつかっと歩いて行って、「申し訳ありませんが、ショウルームの中ではお静かに願います」と、さして申し訳ないという風でもなくのたまう。


何とか機種を決め、申込書を書いてショウルームを後にしたのだが(商品渡しは後日)、いまひとつ快適な買い物ではなかったね、と妻と意見が一致した。



編集すること


業界の人間が言うのもなんだが、広告代理店につくらせるとこういうショウルームができあがる(本当に広告代理店がデザインを担当したのか、携帯キャリアの社内デザイナーが担当したのかはこの際問題ではない)。

ほんとうに見せるだけのショウルームならそれもいいだろう。だが商品を買わせるためのショウルームを広告代理店につくらせてはいけない。彼らはかっこいいものをつくることには長けているかもしれないが、編集に関してはまったくの素人だからだ。

編集。そう、ポイントは「編集」だ。

「編集」と「デザイン」は似ているようでまったく相反する概念だ。編集は異質なものを異質なままに共存させ、そこからエネルギーを引き出す技術だが、デザインは世界を同質なもので塗リこめてしまう。

この概念をぼくは「ネットワーク組織論」(今井賢一・金子郁容、岩波書店)で学んだ。その中で、著者たちは建築家であり建築理論家であるロバート・ベンチューリのこんな言葉を引いている。

ネットワーク組織論ネットワーク組織論
今井 賢一 金子 郁容

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私は、「純粋」よりは「混血」を、「透明」よりは「折衷」を、「直線的」よりは「混乱」を、「文節化されている」よりは「あいまい」を、・・・「デザイン」されたものよりは「伝統的」なものを、「単純」よりは「余剰」を、「直接的で明瞭」よりは「革新的で、非整合的で、多義的で、同時に過去の痕跡をとどめていること」を好む。(「建築における複雑性と矛盾」)

買うための場にはある種の猥雑さが必要だと思う。商品の特徴がわかりやすいようにあちこちにべタべタとPOPが貼られ、展示よりもデモ機を充実させることに意が注がれ、親が商品を検討する間子どもが遊ぶ場くらいは用意されている。

いずれも広告代理店のデザイナ-には興味のないことばかりだ。彼らは自分の「作品」をかっこよく仕上げることにしか興味はない。POPや子ども連れは、彼らのデザイン空間に不協和音を持ち込む邪魔物でしかないのだ。


同様に、カード会社が毎月送ってくる会員誌がまったく面白くないのは、広告代理店の発想でつくられているからだ(実際あるカード会社の会員誌は、かつて私の会社でつくられていた)。そこには「広告」の視点はあっても、「編集」の発想はまったくない。ここちよいフレーズや美しい写真は並んでいても、生のエネルギーがそこにはない。本屋の店頭で数ある商業誌の間でもまれ、消費者の注目を集める必要がなければ、「編集」の発想が生まれる訳もない。


今時ちょっと気の利いたデザイナーならその辺にごろごろしている。しかし今携帯電話のショウルームやカードの会員誌に必要なのは、現実の世界を生き、そこに充満する不協和音を一冊の面白い雑誌に仕立てあげることのできる有能な編集者ではないだろうか。

電通や博報堂にいるインテリが集まって作ったんじゃあ絶対に出てこないエネルギーがあるわけじゃないですか、あの中には。そのエネルギーをもらうことが大事だ、ってこともあるわけですよ。(「フットワークを失った編集者は死ぬ」都築響一:フリー編集者)