5.リーン思考の誕生
1980年代の後半、米国のナショナルプロジェクトで世界の自動車産業を研究したジェームズ・ウォーマックとダニエル・ジョーンズは、トヨタの工場の生産性の高さに着目した。彼らの研究はやがて「リーン(=贅肉を削ぎとった、ムダのない)」という概念にまとめられ(「The Machine that changed the World」1990年。邦訳は「リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える」経済界、1990年)、その報告は自動車産業はもちろん、GEやボーイングをはじめとした1990年代の米国産業界に広く深く受け止められることとなった。
リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える。―最強の日本車メーカーを欧米が追い越す日 (リュウセレクション)
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あらゆる大量生産の工場においては、「プロセス単位でまとめて処理する」というやり方が常識となっている。そこには、「部分最適を徹底すれば、それを寄せ集めることで全体最適になる」という考え方がある。
彼らは、工場の稼働率を上げるため一度になるべく大量に作ろうとする。作ったものはストックしておき、後でまとめて運び出す。だから部品工場では生産した部品の山があちこちに積まれ、組立工場では運び込まれた部品が山と積まれている。これが部分最適だ。
そこに積まれた部品の山(=在庫)をトヨタ生産方式では悪と考える。在庫を持てば管理が必要になる。管理は管理を呼び、在庫はやがて自己目的化してコストの固まりとなる。だから一度に大量に作るのではなく、必要なときに必要なものを必要なだけ作るのだと、トヨタ生産方式は考える。だから在庫はいらないのだと。
そんなことをしたら効率が悪いと、大量生産主義者は言うだろう。しかし、実際には個々の工場や個々の工程が「稼働率」という部分最適を追求するよりも、最初から全体を見渡して、いま必要なものを必要なだけ作っていった方がずっと効率的なのだ。実際、トヨタ生産方式はそのやり方できわめて高い生産性を実現した。
トヨタ生産方式が「在庫」と表現したものを、ウォーマックとジョーンズは「バッチ処理と待ち行列」という概念に置き換える。それはすなわち、「貯めておいて後でまとめて処理する」という考え方を指している。そして、その抽象化によって彼らはトヨタ生産方式を超える射程の長さを手に入れた。「在庫」で語れるのは製造工程とせいぜい流通までだが、「バッチ処理(と待ち行列)」は(あとで見るように)実は消費生活と経済活動のあらゆる局面に遍在しているからだ。
それらをすべて「リーン」に置き換えていくことはできるだろうか。その企てを後年彼らは再び「リーン・エンタープライズ」として提唱する(「Lean Thinking」1996年。邦訳は「ムダなし企業への挑戦」日経BP社、1997年。改題して「リーン・シンキング」2003年)。
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それにしても何故、世界中で「バッチ処理」が行われ、それがいちばんいいやり方だと人々に信じられてきたのだろうか。ウォーマックとジョーンズは、トヨタ生産方式の生みの親である大野耐一のこんな言葉を紹介している。
(在庫の発想は)農業がはじまった時にバッチ(年1回の収穫)と待ち行列(穀物庫)によりそれまでの狩猟社会での1個ずつの処理が崩れたことにその起源がある(「リーン・シンキング」より)
なるほど、狩猟社会においては、狩った獲物はその都度消費される。毎日獲れるとは限らず、また貯蔵技術もない中ではそれ以外に方法はなかっただろう。しかし、農耕社会がはじまるに及んで状況は一変する。農業は作物ごとに収穫期が固定される典型的なバッチ作業だ。狩りと違って大量生産も可能だし、肉と比べて貯蔵も容易だ。
長い農耕の歴史を経るうちに、「人類は他の多数の『常識』としての幻想と共に、このバッチ思考も頭に埋め込まれて生まれてくる」(ウォーマックとジョーンズ)ようになったのかもしれない。そうだとすると、バッチ処理(と待ち行列)への信仰は(少なくとも農耕社会以降の人類にとって)根源的な思考方法と言える。そしてトヨタ生産方式は、人類の頭脳に埋め込まれたこの何千年という歴史を図らずもひっくり返したことになるだろう。